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城氏(じょうし)は、平安時代から鎌倉時代初期に越後国に栄えた豪族。本姓は平氏。常陸平氏大掾氏の傍系で越後平氏ともいわれる。 平将門と戦った平貞盛の弟、平繁盛の子(または孫)の余五将軍平維茂の系統で、維茂の子繁茂(繁成/重衛)を祖とする。前九年の役の前哨戦で陸奥守藤原登任とともに安倍氏と戦った繁茂の子貞茂(貞成)が城太郎(城介の家の長男の意)と呼ばれ、子孫が城氏を名乗るようになった。越後国北部を領有し、奥州藤原氏ともつながりを持った。 伊勢平氏(平家)が力を持つと同族として重用され、養和元年(1182年)、時の当主である城資永(助長)が、源義仲の牽制のために越後守に任ぜられるが、その直後に急死。跡を継いだ弟の城長茂が横田河原の戦いにおいて義仲と対戦するが奇襲戦法に破れ、これ以降その勢力は急速に衰退する。義仲や源頼朝ら源氏により平家が滅亡したあと、長茂は梶原景時を頼り頼朝に仕え、鎌倉幕府の御家人として文治5年(1189年)の奥州合戦や、建久3年(1192年)の永福寺の工事に参加したことなどが『吾妻鏡』に伝わるが、建仁元年(1201年)、叛乱を企てて建仁の乱を起こし、長茂は京において幕府軍に討伐される。 一方これと呼応する形で、旧本拠地の越後国においては、長茂の甥(資永の遺児)である城小太郎資盛とその叔母(資永・長茂の妹)坂額御前が挙兵した。『吾妻鏡』に「城郭(鳥坂城)を越後の国鳥坂に構う」と記録されるが、最終的には佐々木盛綱率いる幕府軍によって鎮圧される(その際、坂額は女性でありながら百発百中の腕前を披露したという)。資盛は脱出して行方不明となり、これにより越後城氏はほぼ完全に史上から姿を消すこととなった。 後世、戦国時代においてその末裔とされる一族が上杉謙信や徳川家康に仕えたとされるが、系譜上のつながりは同時代の木曾氏と同様に後世の仮冒の可能性が高い。 == 関連項目 == *安田氏 - 城氏の庶家とする *建仁の乱 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「城氏 (平氏)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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